空海は初めて高野山にやって来たとき、二匹の犬を連れた狩場明神と出会い、丹生都比売のもとに導かれ、そこで高野山の地を授けられたという伝説があります。鎌倉時代になると高野山はこの伝説を根拠として、丹生信仰の影響圏にあった地域をすべて高野山領であると激しく主張しはじめました。そのことがそれ以降この地域を長くややこしい闘争に巻き込んで行くことになるのでした。。
承久の乱のあと、鎌倉時代後半には西日本の荘園にも警察のような存在として幕府から「地頭」が派遣されて来たことはよく知られています。治安を守るはずの「地頭」たちはやがて暴力を背景にあちこちで荘園を侵略私物化し、荘園でのトラブルが多く起きていました。ところが紀州山間部の人達は決してやられっぱなしではなかったのです。
神野荘のとなりの荘園「阿弖河荘」(現清水町)には、「オモノ衆」と呼ばれた住民代表によって地頭をあげつらった文書が伝わっており、中世史上の貴重な史料となっています。 一方で地頭の悲痛な反論文も残されており、むしろ荘園領主たちの対立関係を利用し立ち回っていた面すらある「オモノ衆」たちの、したたかな団結力とそれを可能にした材木資源など「山の恵み」の豊かさや、強制の拒否や山への逃散をはじめとする抵抗の作法とをよく示す史料と考えられています。
「丹生」とは水銀の原料「丹辰」を生む水銀鉱脈を指すと考えられています。空海は初めてこの地にやって来たとき、二匹の犬を連れた狩場明神と出会い、丹生都比売のもとに導かれ高野山の地を授けられたという伝説があります。水銀の女神がこの地域の「高野山以前」の信仰であったことがわかります。
かつらぎ町大字上天野230
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猿川地区には狩場明神が岩の姿で鎮座するという伝承のある立岩と丹生狩場神社があります。天野丹生都比売神社の例大祭のあとにはこの立岩明神まで渡御することになっていました。
紀美野町毛原宮
毛原宮バス停下車
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上神野地区から車で20分程の山上にある生石高原にはたくさんの巨石や岩盤が露頭しています。なかでも最も巨大な岩盤には
生石神社(しょうせきじんじゃ)が祀られてあり、迫力満点、圧巻の光景は必見。一夜にして出現したという言われがあり、古くから巨石が信仰の対象だったことが
よくわかります。
有田川町大字楠本1265
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