空海は初めて高野山にやって来たとき、二匹の犬を連れた狩場明神と出会い、丹生都比売のもとに導かれ、そこで高野山の地を授けられたという伝説があります。鎌倉時代になると高野山はこの伝説を根拠として、丹生信仰の影響圏にあった地域をすべて高野山領であると激しく主張しはじめました。そのことがそれ以降この地域を長くややこしい闘争に巻き込んで行くことになるのでした。。

承久の乱のあと、鎌倉時代後半には西日本の荘園にも警察のような存在として幕府から「地頭」が派遣されて来たことはよく知られています。治安を守るはずの「地頭」たちはやがて暴力を背景にあちこちで荘園を侵略私物化し、荘園でのトラブルが多く起きていました。ところが紀州山間部の人達は決してやられっぱなしではなかったのです。
神野荘のとなりの荘園「阿弖河荘」(現清水町)には、「オモノ衆」と呼ばれた住民代表によって地頭をあげつらった文書が伝わっており、中世史上の貴重な史料となっています。 一方で地頭の悲痛な反論文も残されており、むしろ荘園領主たちの対立関係を利用し立ち回っていた面すらある「オモノ衆」たちの、したたかな団結力とそれを可能にした材木資源など「山の恵み」の豊かさや、強制の拒否や山への逃散をはじめとする抵抗の作法とをよく示す史料と考えられています。